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武士とは

 

武士 伊達政宗

 

武士は、平安時代に発生し、源氏や平氏など、天皇の末裔(まつえい)を棟梁(とうりょう)として勢力を伸ばした存在です。

 

源氏の棟梁である源頼朝が征夷大将軍に任命され、武士による政権ができたのです。

 

幕府とは、元々は近衛兵(軍人)の居住や出先機関のような意味合いで、それが、武士による軍事政権の名称になったのです。

 

兵(つわもの)というのは、広い意味において、武力を持った戦闘者そのものを表す呼び方です。

 

江戸時代においては

 

  武家は、大名クラスの武士のことです。
  家の子、郎党、下人などの家来を多く抱えた武士で、公家に対して武家と呼んだのです。

 

  武士は、領地を持つ中級以上の武士のことです。

 

  (さむらい)とは、騎馬の武士に奉公する下級武士のことです。
  元々は、貴族の近くに居て(候ふ、侍ふ、さぶらう)身辺を守る存在だったのです。

 

武士は、自分のことを「さむらい」と言っていたようです。

 

・武士の特徴

 

  ・死を恐れない
  ・戦闘者
  ・臆病や卑怯は許されない
  ・御馬先(おうまさき)で討ち死にが名誉
  ・切腹(せっぷく)が許される
  ・敵討(かたきうち)が許される
  ・官職名を名乗ることが名誉
  ・格式の基準は知行(ちぎょう)

 

  御馬先で討ち死にというのは、主君の目の前で戦死することです。
  それが名誉だったのです。

 

  また、意外に思いますが、敵陣に首をさらされることは、恥ではなく、
  武士の本懐を遂げたものとも言えるようです。

 

・切腹について

 

  切腹が一般的になるのは、鎌倉幕府の末期のようです。

 

  新渡戸稲造は「武士道」の中でこう書いてます。

 

    「特に身体のこの部分を選んで切るのは、
     これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信仰に基づくのである。」

 

  元々は、身の潔白や正しさを証明する行動だったようですが、
  罪を犯した者と同じように首も切るようになったようです。

 

  切腹は、当初は、身分が高い武士が戦いに敗れた時の手段でした。
  また、殺したくない武士に自決させるときにも許されました。

 

  刑罰の時は、本来は打ち首にされるところ、武士以外の者と同じ処罰ではしのびないため、
  武士は、刑罰の場合も切腹となったのです。

 

  武士の身分は、「切腹」という手段で自分で死ねたのですが、
  武士以外の百姓や町人は「切腹」ではなく、打ち首という「成敗(せいばい)」だったのです。

 

  成敗は、罪に対する罰で、切腹は、むしろ名誉の意味合いを含んでいます。

 

・敵討(または仇討ち)について

 

  父や兄など目上の尊属が殺された場合、
  江戸時代には、制度としての敵討がありました。

 

  京都所司代や江戸町奉行所などに届け出て、
  権利を得たら、相手を探す旅に出て、敵討ちを行ないます。

 

  藩を離れることもあり、知行はもらえず、名誉回復のため、成就するまで帰れません。

 

  成功すると、瓦版(かわらばん)などで報じられ、全国に名前が知れ渡り、
  禄高(給料)や領地の加増や他の藩からの引き抜かれることもあります。

 

・官職名について

 

  律令制の下で朝廷から官職をもらい、官職名で名乗ることは、武士にとって名誉でした。

 

  官職は別に実態のあるものではありません。

 

  水戸黄門(みとこうもん)

 

    黄門は中納言の唐名。

 

  浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)

 

    内匠寮(ないしょうりょう、たくみりょう)という官職の長官。

 

  吉良上野介(きらこうずけのすけ)

 

    上野国(こうずけのくに)の次官。

 

  長束大蔵大輔(なつかおおくらたいふ)

 

    大蔵省の次官。

 

  大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)

 

    越前国の国司。

 

  遠山左衛門尉(とおやまさえもんのじょう)

 

    左衛門尉は、左衛門府の判官(三等官)。

 

    元々、遠山金四郎景元という名前。

 

    遠山が名字、金四郎が通称の名前、景元が諱(いみな:実名)
    金四郎と景元という二つの名前を持っていたのです。

 

    出世して、遠山左衛門尉となったのです。

 

・武士の知行

 

  知行は現在の給料のようなものですが、お金ではなく、領地から年貢を徴収する権利です。

 

  「三百石の知行取り」というと、三百石の米を収穫できる領地を与えられた武士を意味します。

 

  三百石というように、石高(こくだか)で表します。

 

 

単位

説明

1勺(しゃく) =  15g
1合(ごう) = 10勺 =  150g
1升(しょう) = 10合 = 1.5kg
1斗(と) = 10升 =  15kg
1石(こく)

= 10斗 = 150kg 

 

1石は、10kgの米約15袋くらい。1袋6000円とすると、1石は約9万円。
物価の違いを考慮すると約40万円程度。


志としての武士道

 

明治時代、新渡戸稲造は、その著書「武士道」で、武士道をシヴァリー(Chivalry:騎士道)と表現しています。

 

ヨーロッパの騎士道と類似した道徳や身分や生き方、あるいはそれ以上の含蓄があるものだとみなしています。

 

武士道には、成文法はなく、精神性をまとめた書物が無かったために、欧米の人向けに最初から英語で書かれたのです。

 

今日の武士道の精神について、世界の人が理解するのに適した本です。

 

江戸時代においては、鍋島藩の山本常朝(やまもとじょうちょう)という人が書いた「葉隠」にこうあります。

 

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」

 

無駄に死ねという意味ではなく、いざという時には、己の死を活かし、自分が犠牲になって他を生かす(活かす)ようにと解釈できます。

 

もっと深く掘り下げてみると、無駄に死ぬのではなく誇り高く死ぬ、何かを生かして(活かして)死ぬ、いや、むしろ、そのためにも、大事な者のために死にもの狂いで必死に生きるべきだとも聞こえます。

 

それは、詰まるところ、武士自身の死がクローズアップされるのではなく、それによって生かされる(活かされる)価値があるとすれば、そこに意味があるように思えます。

 

守るに値する価値が見つかったら、守り抜くこと、生き抜くことなのです。守らずに逃げて「自分だけが」生き抜くことは許されません。俗な人間のやることではあっても、武士道には反します。

 

そして、いざという時は、自分が犠牲になることによって、守るべきものを維持し、たとえ守ることができなくても、少しでも滅びることを先延ばしたり、何かの存続の可能性に賭けるために死を顧みないことこそ武士の本懐だと思います。

 

本懐を遂げるまで、私心を捨て、善く(よく)生き、謙虚に振る舞うことが大事なことのようにも思えます。

 

自分の死で何かを生かす(活かす)というのは、謙虚でないとできません。

 

誰かを守るために死ぬ気で最後までやることをやるというのは、刀という武器こそ持っていませんが、現代の日本人に身についた精神なのです。武士道は確実に日本人の中に存在しているのです。

 

武士の志とは、

 

  目標や目的を明確にして持ち続けることであり、
  主君や大事な人や弱い者のために誇り高く死ぬという本懐を遂げることでもあり、
  武士の心の持ち方や武士としての信念であり、あるいは相手を思いやる気持ちです。

 

本懐(ほんかい)とは、目的を果たし目標にたどり着き、任務を完遂することです。本懐を遂げるまでは忠実に任務を続行し続けるのが武士です。

 

帯刀姿の武士としてではなく、志を持った志士としての坂本龍馬のような人は、功績は小さくても現代の日本にもいると思います。


桜吹雪 〜 潔く(いさぎよく)散りゆく桜

桜吹雪と虹

 

壇ノ浦の戦いでの平家の玉砕、戊辰戦争での会津藩、楠木正成、元寇における壱岐・対馬の玉砕、大阪の陣、島原の乱、幕末の志士、ペリリュー島、アッツ島の玉砕、硫黄島、拉孟・騰越の戦いなど、さまざまな玉砕と呼ばれる部隊が全滅する戦いがありました。

 

美しい花である桜が日本人は好きです。

 

桜花(おうか)という言葉もあります。

 

そして、その桜の花が潔く(いさぎよく)散るその散り際の見事さを、武士に例えることがあります。

 

武士の潔く死ぬ姿と、桜の花の桜吹雪で短い生涯を閉じる姿を重ねるのです。

 

昔、ペルシア王クセルクセス率いる100万のペルシア軍の迎撃に向かったスパルタのレオニダス率いる精鋭三百人が全滅したテルモピュライの戦いがありました。

 

映画「300」でも有名ですが、その是非については、論じません。

 

スパルタでは、どういう言葉で形容したのかは知りませんが、日本では玉砕です。

 

日本のサムライと重ねたハリウッド映画「ラストサムライ」では、スパルタの玉砕と似たような展開になりました。

 

表面的な武士道は、戊辰戦争とともに消えました。

 

その後アジア諸国のために蘇り、大日本帝国の終焉とともに、再び亡くなったのです。

 

しかし、その精神性は日本人に引き継がれています。


駐日英国大使による楠木父子の顕彰碑

幕末の1865年に、英国大使ハリー・スミス・パークスが駐日大使として着任しました。

 

楠木父子を尊敬し、自ら強く希望して、1876年、桜井の駅に顕彰碑(けんしょうひ)を建てたのです。

 

楠木父子とは、建武新政で有名な後醍醐天皇への忠義を尽くして足利軍に敗れた楠木正成(まさしげ)とその子正行(まさつら)です。

 

顕彰碑とは、善行を讃える石碑です。


「楠公訣児之処」

 

(なんこうけつじのところ)


TO THE ROYALTY OF The Faithful Retainer KUSUNOKI MASASIGE who Parted from his Son MASATURA At this spot before the battle of MINATOGAWA AD 1336

 

(西暦1336年、湊川の戦いの前における忠臣楠木正成と正行の別れの場所)

武士の品格 〜 日本にならえ

 

日露戦争日本海海戦の日本軍勝利に対して、

 

  ドイツのウィルヘルム二世は、ドイツ軍に「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓話、

 

  アメリカのルーズベルト大統領は、陸海軍に新渡戸稲造の『武士道』を教科書として配布、

 

  イギリスでは、『教育勅語』こそが日本発展の原動力として、
  菊池大麓(きくち だいろく)博士に講演を依頼。

 

明治憲法と教育勅語:文部科学省

武士の品格 〜 ロシア兵の救助

1904年、日露戦争蔚山沖海戦にて、ウラジオ艦隊巡洋艦リューリック号ほか二隻を撃沈させた時に海に投げ出されたロシア兵に対し、

 

上村司令官は、

 

  「敵ながら天晴れ(あっぱれ)な者である。
  生存者は全員救助し丁重に扱うように」

 

と命令し、627名を救助したのです。

 

日本兵は、一匹の動物まで救い上げ、暑い艦艇でロシア兵を扇で仰いだりしたのです。

 

日本兵の声

 

  「こいつらは憎いやつでしたが、こうなっちゃあ、かわいそうです。」

 

ロシア兵は感極まって涙を流し、夢ではないのかと喜んだのです。

武士の品格 〜 ロシア兵の捕虜に敬意

日露戦争当時、日本によるロシア兵の捕虜は8万5500余人、ロシアによる日本兵の捕虜は1622人。

 

日本の捕虜収容所は、全国29ヶ所におよび、強制労働はさせず、自由に散歩させ、傷病者の治療を積極的に行なうという厚遇の結果なのです。

 

つまり、ロシア兵を祖国に尽くした勇者として歓迎したため、捕虜の人数が多いということなのです。

 

1905年(明治38年)4月の時点で、松山収容所は4403人という記録があります。

 

今でも松山市のロシア人墓地は、地元の方が清掃や黙祷を捧げ、墓を守っているのです。

 

私たちのロシア人墓地清掃奉仕活動

 

松山市高浜町には、ロシア語の横断幕があったそうです。

 

  「祖国のために戦ったロシアの勇士を高浜の町民は歓迎する」

 

  (「ロシア海軍レインガード少尉の書いた『旅順・恋と剣』より)

 

 

高浜の駅長が捕虜を迎えた時のあいさつ。

 

  「ロシアの勇士諸君を迎える役目を命ぜられ光栄に思っていると同時に、
   諸君の境遇の不幸は同情に絶えない。」

 

  (「ロシア海軍レインガード少尉の書いた『旅順・恋と剣』より)

 

ダニロフ中将の声

 

  「ロシアの捕虜に対して帝国政府やその役人の方々に終始懇切に歓迎していただき、
  また、一般国民においても同情を表していただいたのは深く感謝に耐えません。」

 

日露戦争 日露戦争捕虜関係

武士の品格 〜 ドイツ捕虜による交響曲第九番

第一次世界大戦において、日本は青島(チンタオ)の戦闘で降伏したドイツ軍の捕虜を全国12ヶ所に分散させました。

 

捕虜の収容所の中でも、徳島県の板東俘虜収容所のドイツ捕虜への丁重さは特筆すべきものだったのです。

 

俘虜とは捕虜(Prisoner of war)と同じ意味です。

 

板東俘虜収容所は、徳島県鳴門市大麻町桧(おおあさちょうひのき)、旧板野郡板東町にありました。

 

現在、ドイツ村公園に一部跡地があります。

 

板東俘虜収容所長 松江豊寿陸軍少将の訓示

 

  「諸君は、祖国を離れた孤立した(中国)青島で、最後まで戦った勇士である。
  しかし、利あらず日本軍に降伏したのである。私は諸君に同情を禁じ得ない。
  諸君は、自らの名誉を汚すことなく行動してほしい。(中略)
  私の考えは、博愛と人道の武士の情けをもって諸君に接することである。
  諸君もこのことを理解し、秩序ある行動をしてほしい。」

 

松江豊寿 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

 

ドイツの捕虜たちは、自由に買物に行くことを許され、音楽会や演劇発表会を催し、サッカーやテニスのためのグランドを作り、池でヨットを浮かべ、日本人住民にビールやチーズ、パンなどを作ったりして、交流を深めたのです。

 

また、捕虜たちは、酪農、洋菓子、野菜栽培、標本作成、植物採取、せっけん製造、建築、気象観測などの指導を行なったのです。

 

なんと、収容所の正門前には、捕虜たちが経営する店があったのです。

 

彼らが作った石橋は、現在も利用されているのです。

 

ドイツ村公園/ドイツ兵の慰霊碑/ドイツ兵の墓 <鳴門市大麻町桧>
心願の鏡池/めがね橋/ドイツ橋 <鳴門市大麻町板東>

 

そして、第一次世界大戦の終戦の年となる1918年(大正7)の6月1日、ベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜の歌」が、ドイツ兵たちによって日本で初めて全曲演奏されたのです。

 

ドイツに帰国した元捕虜たちは、「バンドー会」を設立し、現在も捕虜の子孫たちによって引き継がれています。

 

日本もドイツ兵と地域住民との交流を讃え、鳴門市ドイツ館を建てたのです。

 

通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーの声

 

  「あなたが示された寛容と博愛と仁慈(じんじ)の精神を私たちは決して忘れません。
  そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。
  『四方の海(よものうみ)みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう。」

 

※四方の海:明治天皇が対米戦争決定の御前会議で奉唱された御製の歌

 

  『よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ』

 

  (四方に広がる海でつながるこの世界は、みな兄弟(はらから=同胞)であるように思うのに、
   なぜ人々の間に戦争という波風がたってしまうのだろう。)

 

ドイツ兵の声

 

  「坂東は第一級のホテルだ。」
  「世界のどこにバンドーのような収容所が存在しただろうか。」
  「世界のどこに松江のような俘虜収容所長がいただろうか。」

武士の品格 〜 軍神広瀬中佐のロシア友人への手紙

広瀬武夫(ひろせ たけお)中佐は、旅順港閉塞(りょじゅんこうへいそく)のために、福井丸を爆破して沈める際、部下の身の上を心配して脱出が遅れたために命を落とした軍神です。

 

旅順は、遼東半島先端にあり、旅順要塞が築かれていました。

 

旅順港は、清、ロシア、大日本帝国などに利用されてきた軍港です。

 

閉塞作戦というのは、港湾の入り口に大型船舶を沈没させて港内の船舶を内部に閉じ込める海上封鎖の作戦です。

 

日露戦争で、大日本帝国海軍が行なった旅順港閉塞作戦は、1904年に計3回の作戦が実施され、いずれも失敗。

 

広瀬中佐は、第二次閉塞作戦で戦死したのです。

 

その広瀬中佐は、1897年(明治30)からロシアの駐在武官を歴任し、女性も含めて友人が多くいたのです。

 

ロシアのヴィルキツキー少尉宛の手紙

 

  「今度、不幸にもあなたの国と戦うことになった。何ともいいようがないほど残念である。
  しかし、これは国と国との戦いで、あなたに対する個人の友情は昔も今も少しも変わらない。
  いや、こんな境遇にいるからこそ、かえって親しみも増してくる。
  平和が回復するまでは、かねて申し上げたように、武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。(中略)
  さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ。」

 

手紙は、閉塞船に乗ってでかける直前だったという。

 

ヴィルキツキー少尉は、広瀬中佐を兄のように慕っていたそうです。

 

二人が心配した通りに日露両国は戦うことになったのです。

 

 

当時、日本と同盟国だったイギリスは、広瀬中佐を讃え、祖国を守るために戦死した、いにしえのローマの勇士のようだと賞賛しました。

 

ドイツでは広瀬中佐の絵葉書が作られて売り出されたそうです。

武士の品格 〜 硫黄島に散ったバロン西

男爵、西竹一(にし たけいち)元中尉は、1932年第10回ロサンゼルス大会最終日、馬術競技で、現在にいたるまで日本で唯一の金メダルを獲得しました。

 

男爵であったことから、バロン西(Baron Nishi)、と呼ばれ、欧米の社交界で人気があった人です。

 

オリンピックでは、愛馬ウラヌスを駆って、堂々の優勝を果たしました。

 

ウラヌスは、その2年前にイタリアから買った大型の馬でした。

 

イタリア人が乗りこなせなかったのを、西が完全にわがものにしての優勝だったのです。

 

西は、インタビューに英語で、「We won !」と答えたのです。

 

愛馬とともに勝ったというこの表現は、米国民にも深い感銘を与えました。

 

それから13年、バロン西は、硫黄島で第26戦車連隊長を務め、1945年3月21日のアメリカ軍の総攻撃に対峙しました。

 

アメリカ軍は、ロサンゼルスの英雄に投降を呼びかけましたが、西隊長は玉砕を選んだのです。

 

42歳でした。

 

主(あるじ)の戦死を知ってか知らずか、愛馬ウラヌスは、1週間後の3月28日、東京で死んだのです。26歳。

 

死因は、空襲説と老衰説があります。

 

バロン西は、生前、ロサンゼルスで馬術の練習をしていた頃、当時19際のサイ・バーレットというアメリカ人少年をかわいがっていました。

 

戦後、映画会のプレデューサーとなったサイ・バーレットは、1965年(昭和40)、日本を訪れ、武子夫人と靖国神社に昇殿参拝し、永代供養料を奉納したのです。

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