日本のことがお気に召しますように Hope you find Japan to your taste.

チェスと将棋

 

将棋

 

チェスや海外のほとんどのゲームは、征服するかされるかのバトルだ。

 

征服者が敗者の家来や親族を徹底的に根絶やしにする、というのが海外での常識。情なんてないのは民族が違うからなのか。

 

日本でも、一族郎党皆殺しという言い方があるが、海外に比べれば甘くて緩い。

 

現代の日本においても、ビジネスや様々な社会での喧嘩や制裁において、徹底的には叩かない。

 

とにかく、チェスというゲームは、征服するかされるかという、民族や国家間の戦いのミニゲームという感覚。

 

一方、日本の将棋というのは、どうなのか。

 

そういえば、奪った駒を“味方”として使うが、これが、海外の方には最初は理解できないし戸惑うみたい。

 

海外のゲームには、こんな発想はない。敵は敵で、最後まで敵、絶滅させるもの。

 

 

これは、どう考えたらいいのか。

 

思うに、日本の将棋は、ビジネスゲーム、あるいは、マネーゲームのようなもの?

 

買収して、会社を大きくさせ、抱え込んだ企業や得意分野をうまく活かして使う。こう考えると理解できる。

 

また、怨霊(おんりょう)を御霊(ごりょう)に変える発想も同じかも。

 

徹底的に叩かないというのは、祟りを怖れる理由にも繋がる。

 

敵を味方にするということと、祟りを恐れ、祟らないようにする。祟られたり、祟るのが恐いなら、怨霊を鎮魂して御霊にさえする。

 

奪った駒(敵のチーム、家来)を味方として使う。

 

 

日本の戦は、同じ怨霊信仰する民族同士ということもあるが、ビジネスの買収劇の感覚で見ると、分かりやすい。

 

いろんな民族がいる大陸とは異なる。

 

民族を根絶やしにするバトルを想起させない将棋。

 

将棋や戦国時代の戦(いくさ)というものは、駒の取り合いの買収劇だったということか?


今後の日本のおもてなし

今後、日本人がなすべき「おもてなし」を挙げてみた。

 

◎もっと禁煙を

 

 喫煙をもっと制限し、屋内の限られた場所などにすべき。

 

 日本で、たばこの煙でイヤな思いをされた海外の方(特に欧州)の話を聞いたことがある。

 

 たばこと酒について、緩い規制をもう少し厳しくすべき。

 

◎ハラールフードを取り扱う店を増やす

 

 イスラム法で合法を意味するハラール(halal)。
 NPO法人 日本ハラール協会

 

 ムスリムの人(イスラム教徒)にとっては、
 ハラール認証された食品しか食べられないし、
 ハラール認証されたお店でしか食事できないから。

 

 

 

 宗教上の理由で食べられないものを口にするかもしれないというのは、
 なんとも言えない恐怖であり、不安みたい。

 

 ハラールは ムスリムにとってのお墨付きなのだ。

 

◎イスラム教徒がお祈り(Salat)をする場所を増やす

 

 これもムスリム対応だ。

 

 熱心なイスラム教徒は、日本での旅行中や仕事中でもお祈りしたいのだ。
 一日5回、メッカのカアバ神殿の方を向けて。

 

 祈祷や、それ以外でも使える多目的スペースとして、
 Silence room という名で設置された部屋が、成田空港などの一部の施設にあるみたい。

 

 空港、ホテル、職場、・・・今後、日本のあちこちで必要になると思う。
 額を床に付けられて、静かな場所があれば、教えてあげたい。

 

 モスクを知ってればもちろん、洋服売り場の更衣室でもいいみたい。
 GPSの普及で、彼らは正しいメッカの方角を知っているとか。

 

◎障害者が住み良い街に

 

 平成18年に施工されたバリアフリー新法。
 公共の旅客施設や道路、公演、駐車場などが、どんどん改善されていってほしい。

 

 学校においても、車いすを押したり、自分が乗ってみて押してもらったりの経験を積み、
 車いすが使えるような取り組みをすべき。

 

 車いすを押したことがないと、いざ手伝いたいと思っても協力できない。 

 

◎立ち小便を禁止

 

◎唾吐きを禁止

七夕伝説 〜 恋のパワースポット大島

大島七夕まつり(中津宮七夕まつり)

 

国分学者の武田 祐吉(たけだ ゆうきち)氏によれば、宗像大社中津宮のある大島(福岡県宗像市)の七夕祭りを見て、日本の七夕信仰(たなばたしんこう)はここに始まると述べたとのこと。

 

宗像大社 公式ホームページ | まつり 夏のまつり

 

七夕は、短冊に願い事を書き、笹の葉に飾ることが一般的。

 

七夕伝説というのは、天の川の両側にある牽牛星(けんぎゅうせい、和名は彦星、英語はAltair)と織女星(しょくじょせい、和名は織姫、英語はVega)が、年に一度7月7日に会えるというもの。

 

中国大陸から伝わった七夕伝説は、大島には形を変えて伝わったという。

 

「昔、唐の国に使いに赴いた貴公子が織女と帰国の途中、深い恋仲になるが、帰国後、離ればなれに。そんな時、貴公子の夢枕に天女が立ち、中津宮に行くよう告げる。貴公子は神仕えの身となり、天の川に手桶を浮かべると、水鏡に織女が映る。二人は時が経つのも忘れ、無言で語り合った。」(正平二十三年(1328)『宗像年中行事』)

 

大島の星まつりは、鎌倉時代から行われていた伝統行事。

 

竹灯篭が宗像大社中津宮の境内を灯し、その数は約800。島民は700人。

 

宗像大社中津宮の境内に流れる一筋の小川が天の川。
宗像市大島の天の川
その川を挟んで牽牛神社と織女神社が祀られている。

 

宗像大社中津宮 織女神社と牽牛神社

 

両社を併せて星の宮と称される。

 

いにしえより、男児を授かりたければ牽牛の祠に、女児を授かりたければ織女の祠に詣でるという信仰が残っており、天の川に注がれる天の真名井(あめのまない)の水で習字をすると、字がうまくなるという言い伝えがある。

 

天の真名井は、清浄な水に付けられる敬称だが、この大島の天の真名井は、神話に登場する。

 

『日本書紀』によれば、父イザナギが、海原を支配するように素戔嗚尊(すさのおのみこと)に命じたところ、スサノオは母イザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」としてスサノオを追放。スサノオは、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に言ってから根の国へ行こうと思って、アマテラスが治める高天原へと登って行く。アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たのだと思い、弓矢を携えてスサノオを迎えた。スサノオが、姉のアマテラスに邪心がないことを示すために、それぞれが持っている剣と玉を交換し、誓約(うけい)をしたと言われる。天照大神が素戔嗚尊の剣をとり、天真名井(あめのまない)の聖水を口に含み、その剣に吹きかけると、その噴霧の中から三人の女神が誕生した。これが宗像三女神。

 

大島はかつて大陸を結ぶ海の道の要所だったので、航海中に立ち寄った男たちが天の川を前に、郷土に残してきた愛しい人を想う気持ちが七夕伝説になったとも言われている。

 

2014年は、「結婚報告祭」が開催されるとのこと。

 

中津宮で永遠の愛を誓う「結婚報告祭」

 

宗像市大島は、恋のパワースポットなのだ。


宇宙の内側に神様がいる

夫婦岩

 

すごく大雑把ではあるが、日本と欧米との考え方の違いを述べてみよう。

 

欧米というのは、主にキリスト教を信仰する人たちを意識したグループということだ。

 

日本での考え方や特徴

 

  ・神は宇宙の内にいる。宇宙ができた後に神ができた。

 

   宇宙というのは大自然のようなもの。

 

  ・山、川、海、花、木々、岩、太陽、日用品、・・・などの自然の中には神を感じるから身近に思える。

 

   人間は自然の恵みに生かされていると考え、自然とは共存するものである。

 

  ・神の性別がはっきりしている。

 

  ・八百万の神(やおよろずのかみ Yaoyorozu no Kami , all the deities)

 

   祟を鎮めるために祀られた菅原道真や平将門、山の神様(富士山)、トイレの神様、かまどの神様、
   現人神(戦前戦中の天皇)、歴史上の有力者(豊臣秀吉:豊国大明神、徳川家康:東照大権現)、
   超人的または特別な人間(AKB48の神7)、貧乏神・疫病神、
   戦死後神格化された軍人(楠木正成、乃木希典大将、東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐)、・・・

 

  ・素行や考え方が農耕的。

 

  ・謙遜や謙虚が美徳。

 

  ・利他的

 

   東日本大震災でも、自己を犠牲にして人を助けた事例は数知れず。

 

  ・相対的

 

   話す相手や環境に依る。

 

  ・災害時においても規律を重んじる。

 

  ・その他

 

    自分だけが幸せになることに幸せを感じない という死生観。
    つまり、周りを幸せにすることが幸せ。

 

    他人から感謝されないと生きていけない。

 

欧米での考え方や特徴

 

  ・神は宇宙の外にいる。まず神がいて宇宙ができた。

 

  ・自然は力で抑え克服する対象。

 

   自然は人間が管理する。

 

  ・神は男性的なイメージ。実質男性。

 

  ・唯一絶対神(one God)

 

  ・素行や考え方が狩猟的。

 

  ・積極的に自己主張する。

 

  ・利己的

 

  ・絶対的

 

  ・災害に便乗して暴動や略奪が起きる。

 

 

実際の違いというよりも、日本人から見た表面的なイメージとも言える。


サッカーと野球

野球は日本の文化とも言えるが、残念ながらサッカーは文化とまではなっていない。

 

和の精神が育んできたものとそうでないものの違いだ。

 

繋いで繋いで点を取る。

 

決めたのは自分ひとりだけじゃない、みんなで勝ったんだというのが日本人は好き。

 

壁パスや空いたスペースを使ったり、ゴールの確率の高い有利な選手へのパスなどは、もちろん正解。

 

しかし、最後まで自分一人で決めることの後ろめたさから来る他の選手へのパスなどがたまに見受けられ、残念に思う人がいる。

 

「結果的にみんなで取ったゴールですね〜」という解説に皆うっとりする。

 

1人で5人抜きなんていうのは、日本の場合、歓喜した後、これでいいのか疑問がよぎるかも。

 

ストライカーで、ペナルティエリア内だったら、エゴイストでOK。

 

「オレがオレが」というエゴイストになってもらわなければ困る。

 

元々エゴイストで個性の強い連中がいて、初めて、その次に調和とか連携とかが意識され、課題となる。

 

最初から調和が取れているけど、メリハリのないのが日本の世の常。

 

例えていえば、オーケストラのようなもの。

 

日本の楽団を指揮するとき、そう感じる指揮者がいるそうだ。

 

最初から妙にまとまっていて、揉め事も少ないけど、爆発力も、ピタっとハマる調和もない。

 

 

全員野球と個人プレーのサッカー。

 

サッカーを知らない人は、サッカーを個人プレーの種目だと思っているのも誤解。

 

フォーメーションがあって、戦術があって、ポジションチェンジやおとりや流れるような連携プレーが必要なものなのに。

 

欧州や南米の名選手のように、エゴイスト丸出しで決定率抜群のストライカーが少ないのはある意味仕方ない気がする。

 

日本では、どの分野でも突出したスーパーマンのような人間は少ない。

 

そこそこの実力の人間が和でもって一丸となり、総和の力以上を発揮する。

 

たった一人で(ゴールを)決めることは、本人も周りも観客も許していないのかも。

 

常に全員で競技する野球は大好きで、個人プレーのサッカーはあまり好きでないと思っている日本人は多い。

 

サッカーは、個人プレーなんかではなく、高度な連携プレーの求められる難しい競技。

 

野球に比べて、サッカーは個人プレーだけの程度の低い競技だと、国民がこう思っている限り、まだまだ向上しない。

 

女性や子供、お年寄りまで“監督の目”を持った日本人が多い野球と、オフサイドもフォーメーションも分からない日本人が多いサッカー。

 

海外には、熱狂的なおじいちゃんやおばあちゃんの地元サポーターがいるが、日本にはいない。

 

強豪国になるには、一人の指導者ではなく、日本人の特性を意識する必要があり、数十年を要するような気がする。

 

多くの日本人にとって、和を感じるか、みんなでやっているかどうかが、好きな競技かどうかの分かれ目になっているような気がする。

 

ちなみに、日本の野球のプロ化(プロ野球)は戦後、Jリーグのプロ化は20年あまり、欧米や南米の強豪国のプロ化は100年以上が普通。

 

競技の歴史ではなく、プロ化の経過年数だ。歴史が違う。

 

また、欧米や南米ではあまり野球をしないし、ましてやプロのリーグなんてない。

 

野球の世界一、金メダルといっても、プロのリーグのある十数カ国の中でのこと。

 

欧米でMLBのイチローやAロッドなんか知らない。

 

逆に、200ヶ国前後の国や地域・団体のあるフットボール(サッカー)界。

 

この世でサッカーという競技をしない国はない。

 

ワールドカップはその中での世界一。

 

個人プレーに見えるメジャーな競技人口のサッカーと、みんなでプレーするように思うけどマイナーな競技人口の野球。

 

しかし、どちらの競技も日本での益々の発展を望む。

以心伝心

コミュニケーション

こころをもって、こころを伝えるという以心伝心。

 

世間が鏡である場合が多い日本人は、世間の人々や目の前の相手の思っていることを知りたがる。

 

自分と同じ考え方なのか違うのか。

 

集団でいる時、誰かから質問されて答える場合に、隣の人に何と答えるのかを相談する日本人は多い。

 

学校の授業中や上司が部下に質問した時ははできなくても、街頭でTV局のインタビューを受けた時などは、どう思うか、何と答えるかを相談しあう。

 

均質的な答えをしようと思っていたり、あるいは、お手本のような意見や答えがあると思っている感がある。

 

間違っていようと、異質であろうと、自分の意見や感想を言おうと思ってはいても、とりあえず周辺にいる人の考えを知りたいし、彼らに受け入れられるかどうかという考えがよぎりながら答える人は多いかもしれない。

 

集団で会話するのは好きで得意だが、多くの場合、それは一対一の会話ではなく、多対多。

 

一対一で話す人が多いという集団の会話ではない。

 

「お互い考えていることが一緒だよね」という確認作業のように思えることがある。

 

同心円かどうかを見極めたいような。

 

会話のキャッチボールが苦手だとしたら、その理由の一つは、以心伝心で伝われば、不要な会話をしなくていいという前提があるからかもしれない。

 

日本人は察する能力は高いと思う。

 

民話に「覚(サトリ)」とか「サトリのワッパ」という妖怪が出てくる。

 

人間の前に現れ、相手のこころを読み、考えを言い当てたりする。

 

これは、日常的にその能力を望んでいた民族性を示しているのではないか。

 

神話や伝説などの類は、真実か嘘かということが大事なのではなく、民族性や考え方が集約されていることに意義があると思う。

 

相手の身になって考えることは、すごく得意でそうあるべきとみんなが思っている。

 

自分の言うこと、することが、相手にどう思われているかを、相手のちょっとした態度や口調で悟る。

 

おもてなしは、してもらいたいことを実際に行なう所作の能力がすごいのではなく、相手のことを察する能力と習慣がすごいのだと思う。

 

 

・相手がしてほしいことをしてあげたい。
・みんなと同じ考え方なのか、自分だけ間違っていないかを知りたい。
・言い争いも災いでケガレであるため、事前に察して不要な会話を避けて価値観を分かち合いたい。

 

以上のようなことが理由で、以心伝心という言葉も生まれ、おもてなしの文化が生まれ、顔色や考えを悟る能力が向上したのではないか。


日本でキリスト教が広まらない理由

ステンドグラス

 

・村八部が怖い

 

  日本は、いつの世もムラ社会の原理があり、
  学校でも職場でも、人と同じことをしているか違うのかを見極めて行動する傾向がある。

 

  日本ではマイナーなものを受け入れるには、相当な覚悟が必要だ。

 

  行事や、さまざまな行動、あるいは法事などが、多数派に属さないことになることが怖いとも言える。

 

・日本では世間が規範であり、聖書だけを絶対基準とした規範とはできない

 

  日本人は、悪いことをしたら、神に対して許しを請うとかではなく、
  ご先祖さまに対してとか、世間さまに対して申し訳ないという感覚に満たされる。

 

  世間というのは人。周りの人や日本人全体との考えや行動が、自らの行動規範になりがちだ。

 

  過去に、仏教が受け入れられたのは、伝来こそ他国の王家からだったが、
  日本固有の怨霊信仰からくるその鎮魂や、先祖崇拝の手段となって大いに役に立ったから。

 

  キリスト教が、日本独自のものに変えられない頑なさがネックとなっている。

 

  日本人は、生活する上での行動規範を絶対基準の聖書だけに求めることは難しく、
  時代や住んでいる地域の人々の考えや行動に合わせたいという意識があり、非常に相対的である。

 

  聖書がなくても、礼儀正しく、親切で、優しく、真面目、働き者などという
  日本人の行動規範や武士道の精神は、ご先祖様や世間に対して、
  恥ずかしくない行動を取るように、自ら律している要素もある。

 

・一神教への抵抗

 

  キリスト教では、創造主以外の何者も神としてはいけないため、
  草木やかまどにも神がいると信じる(八百万の神)日本人には、自由度がなくなり、
  抵抗があるのだと無意識に感じているものと思われる。

 

  生まれた時は神社へお宮参りし(神道)、
  正月には、神社やお寺へ初詣でをし(神道、仏教)、
  お年玉をあげたりもらったり(神道)、
  おせち料理を食べ(神道)、
  バレンタインデーやクリスマスの行事を楽しみ(キリスト教)、
  節分の行事があり(神道)、
  桃の節句や端午の節句を祝い(神道)、
  結婚する時は神前(神道)、教会(キリスト教)、仏前(仏教)、人前(じんぜん)などの選択肢があり、
  お盆の休みがあり(仏教)、
  亡くなった時は、仏式(仏教)が主流だったりする。

 

  上記のような自由奔放さは、世界からみれば、無信教(no religeon)とも思える節操のなさです。

 

  しかし、これこそが日本人のあいまいさ。

 

  自由に受け入れては変形させて日本列島で熟す日本文化の典型。

 

  これらの行事が、世間の人と一緒にできなくなったり、制限がかかるのを、
  最初から知っていて拒否したり、後から知って後悔したくないかのよう。

 

  普段は無信教といえるほどの宗教とのかかわりの薄さがちょうど良く、
  上記のような個々の行事に関わりたい自由さがほしいのだ。

 

・自殺を禁じられている

 

  敵に捕らえられたり、辱めを受けることを避けるための自決ができないことへの抵抗もあったかも。

 

・好戦的

 

  日本の仏僧はもともとは武装していたが、信長、秀吉、家康の長い時代に渡って、武装解除された。

 

  宗教戦争や、宗教の力でもって植民地化していった歴史やその規模の大きさを知ると、
  目的のためには手段を選ばないことに違和感を覚える。

 

・働くことは罰ではない

 

  日本人にとって、仕事に罪の概念はないし、罪を持つ意識を変える必要性も感じない。


日本の求心力やシンボルは何?

富士山と桜

 

日清・日露戦争の頃は、大国への仲間入りのため、あるいは、不平等条約解消のため、という危機意識があった。

 

つまり、国民が一つのものに向いているような求心力があった。

 

第二次世界大戦当時の日本は、ドイツのような強烈なナチスの求心力によるものはなかったと思う。

 

ナチスの求心力は、第一次大戦で傷ついたプライドをうまく突き、経済的理由もあって、国民を一つのものに向けさせたもの。

 

日本の先の大戦の場合、これとはまったく逆の、バラバラの組織と行動(特に関東軍)で、収拾つかなくなったことが原因の一つと言われる。

 

なんとなく始まった日中戦争。そしてなんとなく負けている意識はあっても、有利な条件つきの降伏ができなかった日本。

 

危険を察知し、有利な条件で負けることも政治力と思う。

 

危機感のなさは、米軍による原爆でさえ決定打でない。

 

でも、玉音放送が流れるとすーっと手を引いてしまう軍人や日本人。

 

日本人にとって、軍隊は求心力にならない。

 

ということは、日本人にとって、求心力というのは、天皇陛下に対してだけ向けられているものなのかも。

 

日本の国旗や国歌に対してはどうか。

 

オリンピックの金メダル受賞時の国歌や国旗掲揚で胸がジーンと来る人もいれば、来ない人もいる。FIFA主催のサッカーの試合前の国歌斉唱はどう感じるのか。

 

日本のシンボルは何?

 

これを見れば一つになれる、それ想起すれば一つになれるというシンボル化されたもの。

 

他民族国家や人種のるつぼでない限り必要ないのか?

 

アメリカ国民は自国の国旗や国歌が好きな国民。特に国旗は重要なシンボル。

 

多くの国もそう。

 

 

では、日本人って何を想起したら、一つになるのか?

 

象徴としてイメージするものは?

 

桜?富士山?国旗?国歌?天皇陛下?

 

どれも立場によって見解は異なると思う。

 

バラバラのようで、シンボル化されたものがなくても、最初から妙にまとまって崩れもしない民族性だから、シンボルは無いのか。不要なのか?

 

企業でも、原理原則も理念もなくても、現場の社員の知恵や機転で乗り切ろうとする国民。トップダウンではなく、現場が日本を救ってきた。普段は、現場の共同体意識、現場の機転で持っている国。

 

だったらシンボルは要らない?

 

政治でも、経済界でも、求心力やリーダーシップを求められるが、いざ発揮しようとすると、“独裁”という言葉で粉砕することもある。独裁とリーダーシップの違いは判別しにくいこともある。

 

リーダーシップや求心力を発揮できないと、マスコミも世間も、リーダーシップのなさを嘆くことがある。

 

普段は、あれだけ独裁をいやがっていれば、リーダーシップは育たないと思う。

 

フェアに見てリーダーシップを発揮している人間がいても、マスコミが気に入らなければ、「独裁」という言葉で片付けてしまう国民のくせのようなものがある。

 

だから、日本には、強力な権限を持つ大統領制は合わない。

 

 

 

やはり、天皇陛下であり、天皇制というものがシンボルであり、求心力であると思う。

 

陛下がいらっしゃるから日本なのである。

 

国体(こくたい)とも言われる天皇陛下を中心とした秩序。

 

皇祖から連綿と続く天皇。すめらぎ。

 

象徴という意味でのシンボルや求心力という言葉で天皇陛下を表現するのは、不敬でふさわしくないかもしれないが、これがあるから日本だと想起させるものであることは間違いない。

 

そうでなければ、日本の長い武家政権が続く中で、どうして朝廷と幕府が併存し続けたのか。

 

どうして御所が深い堀や石垣もないのに日本国民は誰も攻めなかったのか。

 

そんなことする日本人はいないのだ。

 

日本のあるべき姿、「日本のありよう」をみな分かっている。


立ち上がらない日本人、デモをしない日本人

日本では、政府や王朝を転覆するような民衆の動きはしない。

 

暴動も略奪もしない。

 

当然、ヒステリックと感じるデモに参加することは一般的ではない。

 

民主主義としての権利を行使する延長にデモがあるとは一般市民は思わず、自分たちで正義を勝ち取るためにデモという手段での実力行使をしようとも思わない。

 

とにかく、民衆主導で時の権力を転覆するという行動はあまりしない。

 

大きな声は、特定の場所ではなく、空気を作ること、世論を高めることに向けるのではないか。

 

日本人の心の声

 

  「デモしないといけないほど危機的なの?」
  「切羽詰まってないし」
  「デモは大人げない」
  「騒ぎ起こしたくねーよ」
  「そんなことしても変わんないよ」
  「それほど問題なの?」
  「誰かがやってくれるでしょ」
  「みんながやるならデモも考えてもいいよ」
  「極端に悪い指導者でもないし」
  「異民族じゃないし、日本人である限り信用しているよ」
  「自分の身に降りかからない限り行動しない」
  「トップの人に任せてるし」
  「悪いことはそんなに長くは続かないよ」
  「あんな人でも良心的なものを持ってるだろ。そんなに大きな問題になるとは思わない。」
  「長いものには巻かれておこうよ」
  「デモの目的は空気づくりだよ」

 

欧米から見ると、日本人は、シャイで大人しいようだ。

 

慎ましさゆえんだとか、大声を上げない大人の態度といっても通用しないみたい。

 

デモをしないというダンマリの行動は、鈍感で他人ごとのように映っているのでは?

 

大勢を占めていなければデモをしない、最初から少人数であっても大声をあげないのは数の論理。

 

メジャー派に属していたいから。

 

数の論理で動く動かないという判断基準は確かにある。

 

それなりの時期になったら、それなりの志士が出てくるのを分かっているのか。

 

 

総じて、空気が左右するのかな。

 

みんながしないならマイナーな行為。

 

みんなが動くなら動いてもいい正当な理由があるとみなす。

 

デモに限らず、やはり空気が日本人を突き動かすトリガーなのか。

歴史の事実

ビジネスと日常

 

現代も過去も歴史の事実は不明で、自分の目だけが確かと言える。

 

歴史上の事実かどうかというのは、経験した人、事実を目の当たりにした人しか分からない。

 

タイムカプセルで過去に遡ることもできなければ、同時に別の場所での体験もできない。

 

証明(proof)できるものや、証拠(evidence)として何が信じられるのか?

 

この世に残っている資料や映像はどうか。

 

資料や映像は作為的に作ることができるため完全には信用できない。

 

例えば、百年後に現代の映像が残っているとしても、編集操作されていないとも限らない。

 

百年後に見つかったの偽造書類や画像や動画。

 

捏造されたどうか疑いの目を持って検証しなければ分からない。

 

書物は歴史上、常にそうだったが、勝者側の都合で書かれる。

 

記紀などは、正史として書かれているから事実とは言えないし、書かれていないから史実が無かったとも言えない。

 

いかに、自分たちが正当であるか、いかに少ない人数で大勢の敵を打ち負かしたか、どれだけの功績があったかなどは、差し引いて捉える必要がある。

 

普通、人は、画像や動画を、特別な時、例えば記念となるもの、事件や災害などのようなものを撮る。

 

大きなニュースや何も興味がわかないものは取らないか、後で削除される。

 

何気ない日常シーンは当たり前すぎて記録に残らないもの。

 

 

ずっと先の世代の人が驚くのは、当時の日常の生活や風景や物。

 

  「こんな格好してたの?」

 

  「こんなことやっていたの?」

 

  「何、これ〜?」

 

生き証人がいれば、

 

  「当時は、みんなそうだったんだよ」と言うことになる。

 

当然、今の価値観、常識で見てしまう。

 

  「そんなことあるわけないでしょ?」

 

  「これは何かの間違えよ!」

 

  「昔の方が良かったじゃない」と思うこともあるかもしれない。

 

 

自分の目で見て、複数の人に聞いて、裏を取るために取材したものなら信用できるが、
困るのは、理詰めではこうなるはずだと理論と推測と希望を織り交ぜて言う学者やコメンテーター。

 

 

書物がなくても、数百年とか千年前にもおよぶ言い伝えの話を聞くと、事実かどうかは別にして、その民族のパワーを感じる。

 

まったく別の地域で同じ証拠が見つかったとか、多くの国々や地域で広く認識されていたとか、言い伝えや、文化や習慣などの背景を調べて上で、資料や画像が活きてくるのかもしれない。

 

歴史的事実のフェアな探求は難しい。


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